disconstruction of the felicity

性愛の遍歴

女の悲鳴などやかましいのだから、辱める時は口をテープなどで覆うのが良い。呼気の行先が塞がれ、苦痛に屈してはふはふと息をし、それに合わせてテープの起伏がおこるさまは悲鳴よりも一層奥ゆかしい。恐怖のあまり鼻水がだらしなく垂れ、それを恥じらう様子は更に私を狂わせる。ただし相手が男、特に若き好青年であるならば、悲鳴は究極の甘美を成すだろう。歯を立てて轢り演奏される拙い悶えは非常に淫猥だとは思えないだろうか。

昔から粘着テープによる拘束(縄ではいけないのだ!)に魅了されていた私は、様々な官能を経て改めてそこに目覚めたのである。そこに至るまでの遍歴を語らせていただこう。

 


私は人一倍性を好むのに、それを求めてはなかった。そのような不一致の悲劇が私を当惑させたのは言うまでもなく、また、慰めに耽けることも珍しいのだから、一層異端に見えるらしかった。

幼い頃から女性の魅惑、禁断である女の象徴、自分の魅力を理解した大人びた目つき、稚さを隠す気のない脚、その全てに取り憑かれた。見事なまでに、特に彼らの双丘の魅惑を味わった。身体が女性らしい方とそうでない方では前者を好んだし、かと思えばおてんばできまぐれな小娘に淡いえも言われぬ感情を抱くこともしばしばあった。ここで私の中で、女を好む女の人格が生まれた。

しかし私は突如として男子の身体に目覚めた。解剖書を開いてその黄金を手にした時の、その感動たるや決して言葉などで書き表すことなどできなかった!女に劣らない程の、曲線と角の喧嘩なく、調和が取れた美がそこにあった。そして同じように、私の中には男を好む男の人格が姿を現すようになった。二次性徴の副産物である彼の凶暴性を表現するのは難しい。彼は陵辱を好む男色家であり、幼き頃に見た、ゾンビに食われた男が腕を切断されるという映画のシーンで、一人でに扱きを始めた。放精に匹敵する脳内の悦楽が、今も私を狂わせている。

一方で、私の女はまさに私好みの女であった。おしとやかで貞淑を美徳とし、私をして女体の蠱惑を教えしめ、艶やかな肢体を選り好んだ。女には、慄然とさせるほどの狡猾さがあった。ずるく、いやらしい考えが私の中で支配していた。たまに男を好むこともあった。

男は、私の苦手とする男であった。下品で淫蕩な日々を送り、男を辱めることだけを楽しみにしていて、艶やかな死体を選り好んだ。傲慢で怠惰でどうしようもなく、だが一方で真面目な側面も持っていた。たまに女を好むこともあった。

私の人格の男女は奇妙な均衡を保っていたが、次第に崩れていき、それが性倒錯に拍車をかけた。こうして男女どちらに対しても暴力的な情火に身を焦し、また同じくして恋心も抱くようになった。

 


とうとう私は、唯の異常者と成り果てた。

 

 

(これを読者に読んでいただけたならば、7月31日に投稿した『恐怖』の比喩を理解してもらえるだろう)