disconstruction of the felicity

9月15日

 今日の不眠を除けば、過度に食事を摂り、ふつふつと沸いた興味を放埓に享受しているうちに、精神の安閑を得られた。体の中枢にある歯車が高速で回転し、鈍い金属の擦れる音を鳴らして、抱えきれないほどのエネルギーを持て余しているようだった。やるべき事をすべて投げ出したこの私の醜悪。殊に本への耽溺、放蕩への着実な一歩が、眠りを妨げているに違いなかった。文章という文章を味わい、傾倒しているうちに丑三つ時になると、偏と旁が奇妙なダンスを始める。その舞踏会が、単なる文字の羅列に深い趣を作り出すのである。私にはこれがたまらなく至高であり、日本語のイデアを連想させた。奇妙な饗宴は時に払暁を受け入れた。その時間になってしまえば、朝日が偉大だった。鬱陶しいはずの発汗が、どこか素晴らしいものに思えた。これが夏である。私は反芻すると、乾ききった咽頭に氷を放り込んだ。これぞ夏だ!私の興奮は頂点に達した。得も言われぬ生命のフェロシティ……。偉大な朝に対し、昼はあどけない思慕を思い描くのに適当である。現にこのアカデミックな場で、私の眼が彼女自身をとらえているのがその所以だ。瞳は斜めから見るとその睫毛の勾配が美しく引き立つ。その類の器具で、隅々の毛が反らされているのだろうか。私は心のうちに問いかける。「何をしているの?」勿論返事はない。彼女は必至で黒板を写しているように見せかけて、退屈な過ごし方をしているのが分かった。私は恍惚の溜息を洩らさざるを得なかった。少女の俯きがちな姿勢を見て、心地よくうたた寝ているのだと理解ると、淡い愛おしさが零れてくるようだ。

【追記】

 仏蘭西語を学びたいと思った。数分間聞きかじったばかりで、寡少の文が分かるようになった。なんていい人生だ!ここで宣言しよう、私は四カ月という短い期間でフランス文学が読めればよいと思っている。

記録『思慕のひとを眼前にして』

 


 その方の顔を近くで見たのは、これが初めてだった。生身の肌が皮脂でぎらついて、艶かしく発光するばかりでなく、そこからわかる思春期らしさといふものが太陽の元で粛然と居座っていた。出来の良い顔立ちが笑みで崩れても悠々たる魅力が光っていた。ふと油断していると、それみたことか、若者の気を感じさせるパヒュームが私の鼻孔に悪戯を仕掛ける。微笑んだ目元は不自然ではない程に美しい弧を描いており、その崇高な幾何学的美学は誰をも十分に魅了し得るであろう。この短く切り揃えられ、無為自然なままの前髪、少し伸ばした艶のある後ろ髪も、烏の濡れ羽色だから美しいのだろうか。では、造形の美しさを活かすには、西洋人らしい金や茶が似合うだろうか、などと考えているうちに、また一睡もできず、黎明を超える羽目になるのである。

残暑(恋日記)

刹那に満たない一瞥の中で表象された人間らしい息遣いや視線による放熱が、砂浜を打つ波のように押し寄せる。私は現に、清らかな肌、熟れたばかりの果実色の頬を、この目で捉えている事が信じられなかった。汗をかかない体質なのか脂気もない。私は視界に入るたびに、それらを追うことはせず、視野の中で影を眺めていた。

思想集

・人は社会の利益をあげるために幸せにならなければならない
→そのために犯罪を犯しても構わないが、公共の福祉を超えたものは法律によって縛られなければならない
→つまり極端に言えば、殺人でしか快楽を得られないのなら、人を殺めそのまま罰を受けるべきである

・人間は他者の思考の中にのみ存在する。これは神も同じである

・失敗した時の後悔よりも、何かをしなかった後悔の方が無益なのだから、恥を受け入れ行動するべきだ

・「言語化できない思考は考えていないのと同じ」と言い切ることはできない。言語には未知の感覚を表現できるほどに有用ではないから

・自殺はしたいならすれば良い。それは件の通りである。情があるからという理由以外でそれを止めることは決して許されない

・人間が異性を好むのは性欲のために他ならない。女児の恋愛への関心が高いのは、二次性徴の過程で射精というわかりやすい境界を踏まないからである

→したがって同性愛とは単なる嗜みであるはずだが、人間である都合上、そのリビドーを押し付ける対象がすり替わるだけに過ぎない

・他者に優しくすることで、自分の罪も許される。遅刻した人間を非道だと決めつければ、自身が遅刻したときに罪悪感が大きくなるように。

・死ぬこととは、睡眠のようなものである。意識がない間は世界を認知できないため、全て死んでいるのと同義である。だから死そのものに大きな不安を抱くことは絶対に間違っている

8月29日

 黎明より少し前に眠り、昼間に起きる生活を続けた今日も、先週に入れ込んだアルバイトに束縛されている。躁への原罪は重く、将来をそこに委ねてしまったがばかりに、ますます施しようのない人生になった。中途覚醒や寝つきに悩まされる最中、私は文学という形而上的なものへ、砂漠のなかのオアシスへと導かれたのである。そこでのそのそと布団から起き上がっては蒸せる夏を筆に乗せようと、パソコンのキーボードでタイプをし始めたところまでは良かった。しかし、物語の結末が描かれることはいつまでもなかった。

 第一に、私には純文学に向いた人生観や経験を持ち合わせていなかった。犯罪の肯定、無神論、幸福追求の崇拝などを抱いていた私は、確かに今世を頭で捉えようとしていた。だが、第二に、才能という才能がなかった。この女、己の本を避ける気質を理解していながら、衒い気味の美辞麗句を用いたかったのである。読み返すほどに理想とかけ離れた自分の文章は、読み手に情景を想像させることなく、起承転結も置き去りにして何処かに行ってしまった。

 


 筆が進まないほどであるのだから、何が辛いのかと考えていた。私には夢も愛する人もいなかった。それが辛いのではないか。誰を愛することもなく、私は日本語の美しさに振り回され続けていることが辛いのではないか。

 いや、いいのだ。恭子さえ認めてくれれば、愛してくれれば、私は何だっていいのだ。そう、生きねばならない。

8月28日

 ついに惰性の味を覚えた私はそれを猛省することもなく、えもいわれぬ悦楽を見出した。休暇は今にも明けようとしているのに、自分だけが遠方の海に放り出されているような気がした。sabotageの旨みを覚えてしまったからだろうか。

 思案の夜中、秒針だけが私の中の無限の絶望から時間を切り取っていた。そのうえ、今度は走る列車に身を投げようと、奇怪な勇気だけが一人歩きしていた。この頭痛が苦悩によるものではなく、冷房への反逆でしかなければ良いのだが……

遺言

 一応、何が起こるかわからない世の中ですので書き残しておきたいと思います。

 


 これを読み返しているとき、私は死んでいるかもしれません。多分10・20代の死亡例を見るに、事故か自殺でしょう。私は自惚が強い方なので、皆さんの悲しむ顔をお目にかかることができます。

 


 さて、享年はいくつでしょうか、気がついたらもっと経っているかもしれません。悪くない人生でした。素晴らしい毎日です。忙しさが青春でもあるこの時期にとって、不幸なことなど一つもないのです。

 


 さあ貴方、そう貴方です。ありがとう。生まれてきてくれてありがとう。私は貴方にそう言いたいのです。

 


 たったそれだけです。もし私に財産があれば全部上野動物園に寄付でもしてあげてください。

 


あ!デジタルデータは全部消去してくださいね。